『バーニング 劇場版』の概要


あらすじ(ネタバレなし)

小説家を目指しながら、バイトで生計を立てるジョンス(ユ・アイン)は、偶然幼馴染のヘミ(チョン・ジョン ソ)と出会う。ヘミからアフリカ旅行へ行く間、飼っている猫の世話を頼まれるジョンス。旅行から戻ったヘミはアフリカで出会ったという謎の男ベン(スティーブン・ユァン)を紹介する。ある日、ベンはヘミと共にジョンスの家を訪れ、自分の秘密を打ち明ける。“僕は時々ビニールハウスを燃やしています”―。そこから、ジョンスは恐ろしい予感を感じずにはいられなくなるのだった・・・。
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大学卒業後、アルバイトをしながら小説家を夢見る青年ジョンス(ユ・アイン)は、ある日、幼なじみのヘミ(チョン・ジョンソ)と偶然、再会します。
整形で見違えるほど美しくなったヘミとジョンスは意気投合。
ヘミの部屋で関係を持ちます。
ヘミはジョンスに長年の夢だったアフリカ旅行に行くことを告げ、その間、飼い猫「ボイル」の世話を頼みます。
快く引き受けたジョンスは、彼女のアパートで餌やりを続けるのですが…。
不思議なことに一度も猫の姿を見ることはありませんでした。
やがてアフリカから帰国したヘミは、現地で知り合った謎めいた青年ベン(スティーヴン・ユァン)を連れてきます。
ポルシェを乗り回し、高級マンションに住むベン。
何をして生計を立てているのかも明かさない裕福なベンの存在に、貧しい牛農家の息子であるジョンスは複雑な感情を抱きます。
そんな三人の関係は微妙なバランスを保っていましたが、ある日、ベンはジョンスに奇妙な「趣味」について打ち明けます。
その後、突然、ヘミが姿を消し、音信不通に。
彼女を探すジョンスは、次第にベンへの疑念を募らせていくのですが…。
村上春樹の短編「納屋を焼く」を原作としたこの作品は、現代韓国社会を舞台に、愛と嫉妬、階級格差、そして若者たちが感じる怒りと喪失感を描いたミステリーです。
『バーニング 劇場版』の予告編
SNS + 55kankokuの評価
SNSの評価
『バーニング 劇場版』は国内外の批評家から高い評価を受けています。
映画評価サイトのメタクリティックでは91/100という驚異的なスコアを記録し、ロッテントマトでは批評家支持率95%、観客スコア82%という好成績を残しています。
カンヌ映画祭ではスクリーン・デイリーの批評家採点で史上最高点を記録し、国際映画批評家連盟賞を受賞。
各国の映画祭でも数々の賞を獲得しました。
前米国大統領バラク・オバマも2018年のお気に入り映画として選出しています。
一方で、SNS上では「難解すぎる」「結末が理解できない」という声も散見されます。
特に韓国国内では「あまりにも曖昧で解釈が難しい」という反応から「深い余韻が残る傑作」まで、評価が大きく分かれているようです。
Twitter(現X)では「ヘミは殺されたのか?」「ラストの意味は?」といった考察が今も活発に投稿されており、公開から数年経った今も議論が絶えません。
55kankokuの評価

『バーニング』は表面的には三角関係のミステリーに見えますが、現代韓国社会の階級格差、若者の喪失感、そして抑圧された怒りをメタファーとして描いています。
特に印象的なのは、ヘミの存在です。
彼女は物語の中盤で姿を消しますが、それは韓国社会の中で声を奪われた女性の象徴とも言われています。
彼女自身、パントマイムを習い、「存在」と「不在」についてジョンスに語っています。
大麻を吸ったあと、夕焼けを背景に上半身裸で蝶のように踊るシーンは、はっと息を飲むような美しさ。
束の間の自由と解放を切なく、儚く表現した最高の演出となっています。
このシーンを見るためだけにでも、この映画を観る価値がある!と思うほどの名シーンです。
村上春樹の原作「納屋を焼く」と比較すると、イ・チャンドン監督は韓国社会の文脈を巧みに取り入れながら、より社会性の強い物語に作り変えています。
原作の持つ曖昧さや謎めいた雰囲気は残しつつも、家族の崩壊、階級の断絶という要素を加えることで、より私たちの心にストーレートに訴えかけるものがあります。
静かに燃え上がるような緊張感と、最後まで解けないモヤモヤとした謎は、まさに「スローバーン・スリラー」の傑作。見終わった後も長く余韻に浸れる、そんな映画です。
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キャスト ex
イ・ジョンス / ユ・アイン

主人公
貧しい牛農家の息子で、小説家を夢見る青年。
ヘミの幼なじみ。
ベン / スティーヴン・ユァン

正体不明の裕福な青年。
ヘミとアフリカ旅行で知り合う。
シン・ヘミ / チョン・ジョンソ

ジョンスの幼なじみ。
明るく自由奔放な性格の女性。
あらすじ(ネタバレあり)

ここからはネタバレを含む詳細な内容になりますので、未視聴の方はご注意ください。
小説家を志す青年ジョンスは、大学を卒業したものの定職に就けず、アルバイトをしながら日々を過ごしています。
そんなある日、偶然、幼なじみのヘミと再会。
ヘミは街頭でキャンペンガールをしており、整形して美しくなっていました。
二人は再会を喜び、居酒屋へ。
ヘミはジョンスに自分の長年の夢だったアフリカ旅行に行くことを告げるのでした。
ヘミは旅行中、自分の飼い猫「ボイラ」の世話をジョンスに頼みます。
彼はヘミのアパートを訪ね、餌やり方法などについて説明を受けますが、この時、二人は関係を持ちます。
その後、ジョンスは定期的にヘミの留守宅に通いますが、不思議なことに一度も猫の姿を見ることはありませんでした。
ただ、トイレの砂には糞があるため、猫はいるのだと思うことにしました。
一方、ジョンスの父親は田舎で牛農家を営んでいますが、短気で暴力的な性格。
そのせいで、母親は幼いジョンスを置いて家を出ていました。
そんなある日、父親が市役所の職員を殴って逮捕されてしまいます。
裁判の間、ジョンスは実家に戻り牛の世話をすることになりますが、そこで父親のナイフコレクションを見つけ、驚愕します。

やがてヘミから帰国の連絡を受け、喜んで空港に迎えに行くジョンス。
しかし、そこにいたのは、ヘミとアフリカのナイロビで知り合いになったという金持ちの韓国人青年ベンでした。
三人で食事をした後、ベンは高級車でヘミを送っていき、ジョンスは一人取り残されるのでした…。
後日、ベンとヘミに誘われ、ジョンスはベンの高級マンションで食事をします。
トイレを借りたジョンスは、引き出しに女性のアクセサリーがいくつも収められているのを見つけます。
ジョンスは、なぜ裕福なベンが貧しく孤独なヘミと付き合うのか疑問を抱き始めます。
また、その日、ベンから上流階級の友人たちを紹介されたヘミとジョンスでしたが、ヘミの存在は明らかに浮いていました。
居心地の悪さからか、饒舌に話すヘミを見つめるベンの表情はいかにも興味なさげで、ジョンスはそんな彼になんともいえない気持ちを抱くのでした…。
そんなある日、ベンとヘミはジョンスの実家を訪ねてきます。
ヘミは幼い頃に落ちた水のない井戸について語りますが、ジョンスにはそんな記憶がありません。
三人は食事とワインを楽しみ、大麻を吸った後、ヘミは上半身裸で踊り始めます。
彼女が眠った後、ベンはジョンスに奇妙な「趣味」を打ち明けます。
それは2ヶ月に一度、ビニールハウスに石油をかけて燃やすというものでした。
ベンは次はジョンスの家の近くで燃やすと言い、ジョンスは不安を覚えます。
翌日から、ジョンスは村の周辺を巡回し、燃えたビニールハウスがないか探しますが、見つかりません。
そんな中、ヘミから奇妙な電話がかかってきますが、すぐに切れてしまいます。
以降、彼女は姿を消し、全くの音信不通に。
心配になったジョンスは彼女のアパートを訪れますが、ドアの暗証番号が変わっていました。
大家に頼んでヘミの部屋に入ると、以前は散らかっていた部屋が奇妙なほど整頓され、猫の痕跡も消えていました。
ジョンスはベンの住むマンションを見張り始め、彼の行動を追跡します。
レストランでベンと遭遇した際、ベンにはすでに新しい彼女がいました。
ベンはヘミのことを何も知らないと言い、ジョンスこそがヘミが唯一信頼していた人物だったと語るのでした。

ある日、ベンの部屋に招かれたジョンスは、トイレの引き出しの中に、ヘミの腕時計を発見します。
またベンが新しく拾ったといういう猫が、「ボイル」と呼ぶと寄ってくるのを見て、ジョンスの疑念は確信に変わります…。
父親が実刑判決を受け、家にいた最後の牛も売り払ったジョンスは、ヘミの部屋で小説を書き始めます。
そして、ベンを人気のない場所に呼び出すと、突然ナイフで刺して殺害。
その後、ベンの遺体と高級車に石油をかけて火を放ち、返り血の付いた服も燃やし、全裸のままトラックに乗り立ち去るのでした…。
『バーニング 劇場版』の結末の考察(ネタバレ含む)
『バーニング 劇場版』を見終わった後、多くの人が「結局何が起きたのか?」と首をかしげるのではないでしょうか。
この映画の魅力は、すっきりとした答えを示さず、いろいろな解釈ができる点にあります。
ここでは「ヘミは殺されたのか?」について、ネット上で議論されている4つの可能性について、GoGo韓国(55kankoku.com)なりの考察をしてみました!
ベンがヘミを殺した

最も支持を集めているこの解釈は、「ヘミはベンに殺された」です。
ベンというキャラクターは表面上は魅力的で社交的ですが、その目には常に何か空虚なものが宿っていて、冷淡です。
「退屈している」と漏らす彼の言葉は、刺激を求め続ける内面を暗示しています。
このような人物が「ビニールハウスを燃やす」という破壊的行為に満足感を見出すのは不自然ではありません。
彼にとって女性との関係も同様に、一時的な刺激に過ぎず、「燃え尽きた」と感じた瞬間に関係を断ち切る(=殺害する)、そして新しい彼女と付き合う、というパターンが想像できます。
また、ベンの持つ権力と富は、彼に「何をしても許される」という特権意識を植え付けている可能性があります。
彼の部屋の引き出しに整然と収められた女性のアクセサリーは、彼が「コレクション」として過去の犠牲者の記念品を保管している証拠と読み取れるでしょう。
そう考えると、ベンが女性にほどこす化粧は殺害前の儀式とも思えてきます。

映像的にも、ベンが犯人であることを示唆する要素が随所に散りばめられています。
特に印象的なのは、ジョンスがベンのアパートを訪れるシーン。
カメラは意図的にベンの生活空間を「侵入者」であるジョンスの視点から探るように撮影し、観客に「証拠を探せ」と促しているようです。
トイレの引き出しから見つかるヘミの腕時計とさまざまな女性のアクセサリーは、まるで犯罪映画の決定的証拠のように映し出されます。
また、ベンが「次に燃やすビニールハウスは君の家の近くにある」と告白するシーンでの彼の表情のアップは、その言葉に隠された真の意味—つまり「次はヘミを消す」という暗示—を伝えようとしているかのようです。
このように、多くの状況証拠と映像表現から、ベンこそがヘミの失踪(殺害)の犯人だという解釈が最も支持を集めています。
ジョンスがヘミを殺した

次に支持を集めているのは、主人公ジョンス自身がヘミを殺害したという解釈です。
ジョンスの内面には、表面化していない暴力性や執着心が潜んでいる可能性があります。
父親の暴力的な気質を「自分とは違う」と強く否定する彼の姿勢は、実は彼自身も同じ傾向を無意識に持っていることの裏返しとも考えられます。
また、映画の中で燃えるビニールハウスを食い入るように眺めていた幼い少年がベンではなく、ジョンスだったという設定も意味深いです。
幼いとき、父の命令で母親の洋服を燃やすという、辛い経験をしたジョンス。
このときから、彼の中では喪失感や怒り、哀しみが「炎」と同一化した可能性があります。
教会の中の赤い炎の地獄絵図を食い入るように見つめるシーンからも、彼の内面にある破壊への衝動、あるいは浄化への願望がうかがえるのではないでしょうか?
ジョンスのヘミへ向ける愛情も独特です。
ジョンスとヘミの初めての性行為の場面で、行為中、ジョンスの視線はずっとヘミが語った「暗い部屋に数秒差し込むわずかな日の光」に向けられていました。
この視線には深い意味が込められているように思われてなりません。
ジョンスの人生は様々な「闇」に囲まれており、そんな彼にとって、ヘミの存在そのものが、暗闇に差し込む一条の光のように感じたではないでしょうか?
彼女の存在が、彼の暗く孤独な世界に一瞬の輝きをもたらしていた。
その光が「ベン」によって奪われたとき、ジョンスの中で何かが壊れたのかもしれません。
ヘミに対する彼の愛情は、健全な関係というより「所有したい」という執着に近いものが感じられます。
なぜなら、大金持ちのベンが最愛の女性であるはずのヘミと親しくしていることに、ジョンス自身が不信感を抱いているからです。
「あの男が なぜ お前に会うか 考えてみたか?」
さらに、ジョンスはヘミに好意を抱きながらも、彼女のことを信頼していたわけではありません。
彼はヘミを「光」として求めながらも、彼女の語る物語を完全には信じていませんでした。
この矛盾した感情が、彼の中に葛藤を生み出します。
彼女が本当に井戸に落ちかけたのか、それとも作り話なのか——。
必死で井戸を探し回るジョンスの姿は、彼女の話を信じたいという願望と、信じきれない現実との間で引き裂かれる彼の内面を象徴しているのではないでしょうか。
幼馴染のヘミを一度手に入れながらも、ベンという「より良い男」に彼女を奪われたことで、強い嫉妬と喪失感を抱いたジョンス。
その感情が極限まで高まった時、彼がヘミを殺害してしまった可能性があります。

映像的にも、ジョンスが「信頼できない語り手」として描かれていることが、この解釈を支持しています。
映画は常に彼の視点から展開し、彼の主観的な体験や解釈が前面に出ています。
監督はこの手法を通じて、私たちに「彼の見ている世界がどこまで現実なのか」と問いかけているようです。
そう思えば、ジョンスがヘミの踊りを見つめるシーン。
夕陽の中で半裸で踊る彼女の姿は、あまりにも幻想的で現実離れした美しさがあります。
これはジョンスの内面の欲望や幻想が視覚化されたものだと解釈できそうです。
最後に、ラストでベンを殺害するシーン。
ジョンスの冷静さと手慣れた動きは、彼がすでに殺人を経験している可能性を暗示しているかのようです。
通常、初めて人を殺す人間があれほど冷静に行動できるでしょうか?
この不自然さは、彼がすでにヘミを殺害している可能性を示唆しているようにも見えます。
このように、ジョンスの心理状態と映像表現の両面から、彼自身がヘミを殺害した可能性も十分に考えられるのです。
ジョンスの妄想が生み出した犯罪

三番目の可能性は、ベンがヘミを殺したというのはすべてジョンスの妄想であり、実際には無実のベンをジョンスが殺害したという解釈です。
ジョンスは、父親の問題を抱え、経済的にも厳しい状況の中、創作活動も上手くいかず精神的に追い詰められた状態にありました。
このような強いストレス下では、現実の認識が歪み、妄想が生まれることがあります。
彼のヘミに対する強い恋心と執着心、そして、自分より「上」の階級に属するベンへの強い嫉妬心。
映画の中で、教会のミサが終わったあと、ジョンスがベンの家族を羨ましそうに見つめるシーンがあります。
裕福で穏やかな家族環境、自分とはかけ離れた「別世界」を生きるベンとその家族。
ジョンスの視線には、単純な羨望だけでなく、「なぜ自分はあのような世界に生まれなかったのか」という根源的な問いも含まれているようです。
この深い劣等感と嫉妬心が、ジョンスの心の中でベンを「悪役」として作り上げた可能性があります。
ヘミへの執着とベンへの嫉妬。
この二つの感情が混ざり合い、「ベンがヘミを殺した」という妄想を生み出したのかもしれません。

この解釈を強く支持するのが、ジョンスがベンを尾行するシーンです。
彼は何度もベンの行動を監視しますが、決して「ビニールハウスを燃やす」現場は目撃しません。
それにもかかわらず、彼の確信は深まっていきます。
これは彼の主観的な「思い込み」が強化されていく過程を表現しているかのようです。
ジョンスが幻のヘミと性行為を行い、失踪後のヘミの部屋で執筆活動を行うシーンも印象的です。
このシーンは、ヘミの存在がすでに「現実」ではなく、ジョンスの中の「記憶」や「幻想」です。
彼はその記憶の中の「光」にすがることで、自分を支え、そして創作という行為にたどり着こうとしているのです。
そして実際、「ヘミの部屋」での執筆活動で、ジョンスは本当の意味で「書く」ことができるようになりました。
彼女から受けた衝撃や感情が、長い間停滞していた彼の創作力を解放したのです。
皮肉なことに、ヘミの「不在」こそが、ジョンスに「書く」力を与えたのかもしれません…。
このように、病的な心理状態にあったジョンスの創作的想像力と現実の境界があいまいになり、彼自身が作り上げた「物語」を現実と混同してしまったという解釈も十分に説得力を持っています。
ヘミが自ら姿を消した

最後に、少数派ながら「ヘミが自分の意志で姿を消した」と解釈する人たちもいます。
ヘミというキャラクターからは、現状の生活や社会的な枠組みから逃れたいという願望が垣間見えます。
アフリカの「砂漠で泣いた」体験は、自分自身を見つめ直すきっかけになったかもしれません。
「井戸の話」はこの解釈において重要な意味を持ちます。
ジョンスは彼女の話を信じず、彼女の親すらその話を信じていなかったという事実。
これはヘミが生きてきた世界で、彼女の言葉、彼女の存在そのものが常に「疑われ」「信じられない」ものとして扱われてきたことを示しています。
このような環境で育った彼女が、自らの存在を「消し」て新たに生まれ変わりたいと願うのは、むしろ自然なことかもしれません。
ジョンスとヘミの関係性において、彼女は彼にとっての「光」でした。
しかし、その関係は一方的なものだったのかもしれません。
ジョンスが彼女に見ていたのは、あくまで「暗闇に差し込む光」としての役割であり、彼女自身の本当の姿ではなかったのではないでしょうか。
井戸の話を信じなかったように、彼は彼女の内面を本当には理解していなかったのです。
さらに興味深いのは彼女が学んでいた「パントマイム」、「(ミカンが)ないことを忘れる」技術と、彼女が憧れていた「グレート・ハンガー」(人生に飢えた人:なぜ生きるのか、人生の意味は何なのか、それを知ろうとする人)です。
家族の中で、また韓国社会の中で「見えない存在」として扱われてきた彼女が、最終的に文字通り「消える」ことを選び、新しい人生を歩み始めたという解釈も可能でしょう。
映像的には、ヘミが自ら姿を消したことを示唆する要素もあります。
彼女の部屋がきれいに片付けられ、彼女の痕跡が丁寧に消されているという事実。
これはヘミ自身による「ヘミとしての人生の消去」と捉えることができます。
街頭でキャンペンガールとして働き、人生の意味を求めてアフリカへ一人旅をするヘミ。
ヘミは単に「消される」存在ではなく、自ら「消える」選択をする強さを持っているという解釈も十分に考えられるのです。
個人的にはそうであってほしい、と強く願っています…。
ラストの結末の考察

これら4つの解釈のどれが「正解」なのか、映画ははっきりと示していません。
むしろ、この「答えのなさ」こそが『バーニング 劇場版』の魅力なのでしょう。
それぞれの解釈は、現代韓国社会の異なる問題——若者の孤独感、貧富の格差を浮き彫りにしています。
映画を見終わった後も消えない「モヤモヤ」とした感覚。
それは単に「ラストの結末の謎が解けない」というイライラではなく、現代社会の不確かさや不平等さに対する無意識のフラストレーションかもしれません。
あなたは、どの解釈に最も心ひかれましたか?
あるいは、まったく別の見方があるかもしれませんね。ぜひ、コメント欄であなたの考察を教えてください♡
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